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zoom RSS ちょっと宗教くさいかも。

<<   作成日時 : 2008/03/02 01:51   >>

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酒場の皆さんはご存知でしょうが、南はクリスチャンです。
あんまり熱心ではないけどね。



南の母方の伯母がシスターをやっています。
その伯母が一ヶ月くらい前に福岡である研修か何かのついでにちょっと帰省してきてたんですが、色々と宗教的な話をされました。いつだったか酒場でも宗教についてが話題になってたような記憶があるんですが、伯母が話すこととちょっと似てたなぁ、と今になって思うわけで。妬まない、僻まない、常に感謝の心を忘れずに、っていうのは歴史の流れで大きくなった宗教には共通のことなのだろうな、と実感しました。
伯母いわく、悪いことをしたと思ったらすぐに神様に許しを請うべき、だそうで。
キリスト教ではいわゆる告悔とか許しの秘蹟と言われているやつですね。
時間があれば常に祈ること、というのも言われました。それも出来れば自分に関する祈りではなくてもっとたくさんの人に関すること、例えるなら自分が住んでいる地域の安全だとかそんなことを祈りなさい、と。誰かの悪口を言えば必ず自分に返ってくるから言っちゃいけないよ、とか、一人一人の祈りは小さいけれどたくさんの人が祈るようになれば相乗して大きな祈りになる、とか、この辺は言霊の概念とかにも共通するような気がする。

キリスト教、ていうかカトリック?には天国と地獄の他に煉獄という罪を償う世界の概念があります。また、煉獄から天国へ行くには自分自身の祈りではなくて遺族や他人からの祈りが必要。だから死者の為のミサというものがあります。煉獄にいる霊魂のために祈る場、ですね。
伯母が言うには煉獄では常に火炙りされているようなものらしく、煉獄の魂のための祈りが風となって苦しむ魂を慰めてくれるのだとか。その魂が天国に行った後は祈った人間が煉獄へ行った時に手助けをしてくれるんだそうです。これも言霊とか業の概念に近いものがあると思う。

伯母自身、最初は信じてなかったそうなんですが色々なめぐり合わせがあって信じるようになったそうです。私も今は正直言ってあまり信じてない。ただ、小さな頃から教会とかお祈りに慣れ親しんでるから、多分心の底にはそれを信じてる部分があるんだと思います。大いなる何か、というとちょっと語弊があるけれども人間には感知できない何者かがいるんだろうことは信じてたりするので。
それが人によっては神様だったり、言霊だったり、業だったりするんじゃないかな。
だから現実に今生きている特定の人間を神もしくはそれに準ずるものとしてあがめる新興宗教にありがちな崇拝という名の妄信とか狂信だけはどうしても受け容れられないし、気持ち悪さというか生理的嫌悪感というかそんなものを感じます。崇めているのが死者だった場合はそんな風には感じないんですけれども。

自分がした良いことも悪いこともいつかは全部めぐりめぐって自分に返ってくるんだよ、というのを様々な言葉や儀式みたいなもので示しているのが古くから連綿と続く宗教というものなんだろうなぁ、と最近思うようになったのです。色々な祈りの言葉も平易な言葉に直すと日々の糧を与えてくれる何かに感謝し自分の犯した罪を悔い改め許しを請うような内容だったりするのがとても興味深かったりします。他にも周りの人(対象が国とか世界とかそんな風に広がることもあるけれど)の無事や幸せを願うものも多いですよね。



今度暇な時に聖書を読み返してみようと思います。
多分今なら昔にはわからなかったこととかもわかるんだろうと思える。
あと賛美歌の歌詞も見返してみたいです。特に詩篇。

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